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ちょうど一ヵ月前、私がニューカレドニア旅行から帰って来たその夜、アメリカンショートヘアのルーシーが亡くなりました。

4歳2ヵ月でした。

その日の詳細はここに記すことも辛いので割愛しますが、夫がルーシーが倒れて様子がおかしくなったことに気付きました。

すぐに病院に連れていきましたが、私が夫からルーシーを受け取り抱きかかえた時にはすでに心肺停止になっていることがわかりました。

それでも祈るような気持ちで病院に駆けつけ蘇生をしてもらいましたが、どうにもなりませんでした。

死因は心臓発作ではないかとのこと。

数分の間の出来事でしたので、とても受け入れられるものではありませんでした。

ついさっきまで私がキッチンで料理を作る様子をいつものように眺めていたのですから。

ルーシーは我家ではじめて飼ったネコでした。

2014年3月、近くのペットショップで見つけ、どうしても欲しくて夫に頼み込んで買ってもらいました。

2013年に義父が亡くなり、2014年に入り義母の癌も進行してきて、どことなく家の中が重苦しい空気が漂っていた中に生後2ヶ月半のルーシーが来てくれました。

ルーシーは明るく、賢く、お転婆ですぐにそんな空気を変えてくれたネコでした。

その後マイケルくんも我家の一員に加わりました。

二匹で追いかけっこしたりじゃれ合う姿に私たち家族はどれだけ癒しをもらったことでしょう。

彼にとってルーシーは頼れる姉御的な存在だったと思います。

好奇心旺盛なルーシーの後にいつもくっついていましたから。

ルーシーが亡くなってこの一ヵ月、私の中にはいろいろな感情が出てきました。

「死」というものに良いも悪いもないこともわかっているつもりでした。

自分の中心に意識を合わせ、私たちは生きているものもすでに亡くなったものもすべて一つに繋がっているワンネスの存在であることが自覚できている時はルーシーもすぐ近くに感じられ、

「彼女は短い命だったけれどそれも本人が決めて来たこと、しっかり自分のお役目をまっとうし、この地球より光輝く聖なる美しい場所に戻っただけ」

と思えるのですが、

自分自身が全体から切り離された個人になってしまうときは、

「どうしてこんなに早く逝ってしまったのか」

「もう二度とルーシーに会うことができない」

と悲しみからとめどもなく涙が溢れてくるのでした。

この一ヵ月、この感情が振り子のように行ったり来たりしているようでした。

ルーシーを亡くして、一番強く思うことは、

「当たり前としている日常が奇跡の連続であった」

ということです。

ついさっきまでルーシーといる生活が当たり前であったのに一瞬にしてそのすべてがなくなってしまったから。 

結局私たちが何気に過ごしている現実には、当たり前なんて一つもないということです。

一緒にいてくれる家族

出会う人々

健康であること

水や食事や空気を得られていること・・・

一瞬一瞬のすべてが奇跡だということ、これをイヤというほど強く思い知らされました。

これが最期にルーシーが命を持って私に教えてくれたギフトです。

まだ、一日に一度は涙してしまう日が続いています。

可愛がっていた動物の死というものは幼い頃にも経験済みですが、また大人になって世話をする立場になってからは一層喪失感は増しますね。

子供と同じだし、動物って愛しかないから・・・

ひたすら私たちに愛を注いでくれる存在だったからかな。

これは亡くなる一ヵ月ほど前の写真です。

ブログでもルーシーは登場させていましたからどこかで読者の皆様にもご報告しないと、と思っていましたが想い出を振り返ったり、文章を綴ることもつらく今となってしまいました。

最後くらい子猫からの写真をたくさん載せたいとも思いましたが、どうしてもまだ写真を見ることができないので、この一枚だけ載せます。

悲しみがすべて感謝に変わるまではまだ時間は掛かりそうです。

でも、私たちはきっとまたあの世で再会できるはず。

それまでは夢の中で遊ぼうね。

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